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2011年06月10日

自分の感受性くらい

   
淀川長治.jpg

なんかね、淀川長治さんのことをよく思い出して考えるんだよね。

ああいう方ってほんと素晴らしいなって思う。
多くの気づきを僕らに与えてくれるもんね……

映画の観方って、もちろん人それぞれ、
いろんな観方があって当然なんだけど、

おんなじ映画を観たとしても、
淀川さんは、僕なんかの100倍くらい、
いやもっともっと充実した映画体験をしておられる。

それは、単純に、蓄積された知識の圧倒的な差があるから
ってのも理由なんだけれどね。

例えば、価値のある骨董品のお皿を見て、
そのお皿についての知識のある人なら、
わぁ、凄い! って感動することが出来るけど、

その皿についてなんの予備知識を持ち合わせていない人なら、
なんにも感じないかもしれない。

けれども、感動ってのは、
もちろん知識のあるなしに関わるものだけではない。

まったく、なんの知識も持ち合わせていなくても、
感動するものには感動する。

つまりは、あるものを観て、聴いて、触れて、
「そこに何を見出すか」ってことが、
重要になってくる訳なんだけど、

これは、その人の持ってる感受性、
感じとる力、理解力、などの資質にも拠るところが大きいよね。

もう何度もなんども書いてきてるけど、
僕は、フェリーニとか、中原中也とか、
凄く好きで、

これまでにもこういうブログなんかにも記述したり、
いろんな人に語ったりしてるけど、

例えば、こういう作品を
「まったく意味がわからない」

って、言い放つような人にも接することってとってもよくある。

そんな時、ま、僕は、短気だから、
「ボォケェ! 何がわからんだ!
 ちょっとはその感性を恥じて磨く努力でもしろよ!」
なんてほんとは内心ムッとしてるんだけど。

それは、自分が感動したもの、
いいと思ってるものを、

いとも簡単に(乱暴に…)否定されたからあるいは、
その価値を認められなかったからっていう
個人的な感情が多くを占めてるんだろうけど、

なんでだろう、なんで世の中には、
こんな作品ですら評価されない場合があるんだろうっていう
憤りや苛立ち、この社会へ対する悔しさもあるように思う。

もちろん、それはほんとはとっても独り善がりな思いなんだけどね、

いろんな人がいるんだから、
わかるわからないも、何に興味を示すかも別にいいじゃんね……

それに、僕だって、偉そうに言える立場かよ、
人様に対して、なに見下した構えとってんのって、

そういう風にも思って恥ずかしくもなるけど、

それだけじゃなくって、その良さをうまく伝えられてない、
もどかしさもあるんだろうなって思う。

相手にだけでなく自分自身に向けられた不満もあるってことね。

だったら、自分は、どう表現していけばいいんだろうっていうね、
もっと、不満があるなら社会に働きかけていけよって思いのこと。

自分の、美しいと思うもの、愛するもの、理想……

そういうものを世間に訴え続けた、
伝道師が淀川さんのような存在だろう。

その生き方は、やはり一貫していて凄いなって思う。

使命感だよね。

「この良さ、美しさがわかる社会にしていかなくてはいけない、
 その為に、自分はこういうふうにして伝えて行くんだ」っていうね。

文化の力が世の中を牽引していたり、
社会の活力のもとになっているってことを、

よく理解して信じて、敬意を持って映画に接してこられたからこそ、
こうした功績を残せたんだろう。

僕は、淀川さんの映画解説や評論のありがたさは、
もちろん、知らなかったいろんな知識を教えてもらえるってこともあるけど、

それだけじゃなくって、冒頭にも書いたように、むしろ、
観方を気づかせてもらえるってことが大きいように思う。

自称映画好きな人たちが書くレビューなんかとはまったく違うもん。

「好き嫌い」「インパクトがあるない」「わかるわからない」
といった貧しい視点だけで乱暴に語られた世に溢れるレビューには、
読んでてこっちの心が痛んできちゃって、不快で不快でもううんざりだけど、

淀川さんは、いつも新しい視点を僕らに示してくれた。

ある時は、名作映画の定番『太陽がいっぱい』のことを、
これは、男が誰しも内在させてるようなある種のホモセクシャルの心理を
うまく描写した映画なんだと解説されていた。

そんなのまったく気づかなかった僕は、ええっ…てびっくりした。

妬み、羨望からくる犯罪心理に、
主人公の微妙な同性愛の愛憎も複雑に絡んできているんだという視点を差し込めば、

より一層、作品の文学的なテーマにも迫って味わい方が変わってくる。

青春の野望、焦りを感じるだけでなく、
アラン・ドロンとモーリス・ロネというこのふたりの美男の船上での行動一つひとつに、
また、陽に焼け、鍛えられた美しい肉体に、
はぁ、なるほどね…って気づくことが出来るようになって、より楽しめる。


ルキノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す』の解説では、
オープニングのシーンの描写がいかに繊細な演出がされているかを教えてもらった。

アッシェンバッハの重たい表情、髪の毛の乱れ具合、マフラーをまく仕草、歩き方、
船からもくもくと立つ黒い煙、主人公の目にする人々、水面の深い色……

巨匠ヴィスコンティの絵の中に込める一つひとつの細やかなこだわりを
感じ取り、その凄まじさを伝えられ、

そのいっこいっこを丁寧に観ていく眼差しを持つ大切さを感じさせられた。

同時に、これまでいかに自分がきちんと映画を観ていないか乱暴な観方をしてきたかを恥じた。

『旅情』でのキャサリン・ヘップバーンの手の演技やそこにこめられた心情。
『夏の嵐』のアリダ・ヴァッリのこれこそ女なんだよという迫力の名演技について。

なるほどねぇー! そういう観方をしてるのかぁって気づきがある。

淀川さんの解説を聞いてると、ストーリーを全部話されちゃっても、
その映画を観てみたくなっちゃうような引き付けられるものもなんかあるよね。


また、淀川さんの面白いところは、
必ずしも映画の情報が正確ではないとこにもあるんじゃないかな…(笑)

いや、これは、皮肉じゃなくって、
ほんとにそう思うんですよ……

『勝手にしやがれ』のラストシーン、

警察の銃弾をあびた盗みの常習犯が、ガールフレンドのパトリシアの胸の中で
息を引き取る間際に「勝手にしやがれ」とつぶやいて死んでしまった。

みたいに解説してたけど、観た人はわかると思うけど、
ほんとの終わり方は、そうじゃなかったよね……!(笑)

ま、肝心なラストシーンなんで、ほんとはどういうラストか、
ご自分で確かめてみてください。


それに淀川さんが「一番のお気に入りで、十八番の映画」と言われた
『サンセット大通り』の解説でも、

グロリア・スワンソンが、男にふられた時に
「Why Why...?」と言って、
サイレント時代の大女優らしく、
大振りな手の演技で男に迫るんだと解説されたけど、

僕はなんどもこの映画チェックしたけど、
厳密にはこの場面は存在しないんだよね……


つまり、このふたつの例は、

記憶は自分の脳の中で作り変えられてしまうってことなんだけど、

けれども、正確な事実とは違っているかも知れないけど、
どっちの映画とも、そんな感じがするもんね!

「事実とは違うけど、よりその映画のことをリアルに伝えている」というか……

なんかへんな言い回しだけど、
きっと、それわかるって人もいらっしゃるんじゃないかな…?

ゴダールらしさ、スワンソンらしさ、そんなものがよりしっかり僕らに伝わってくる。

別に正確さだけ求めるなら、
資料とか見ればわかるわけだし、

淀川さんを通してその作品のことを伝えてもらいたい魅力が、
彼の「表現」の中にはあるってことですよね。

だから、ほんとうの評論家ってのは、
好き嫌いをただ述べる人なんかではまったくなくって、
自分の表現を持っているクリエイター的な人種であるべきだと思うんだよね。

そういう意味で、

彼のような稀有な存在を失ったことは、
映画を愛するひとりとして、僕にとってもたいへん残念でさびしいことだし、

日本の文化のひとつの支えを失ったことに対する不安や心配も大きく感じた。

こういうひとがいなくなっちゃって、
日本の映画界はどうなってしまうんだろうってね……

まぁ、お歳もお歳で、
映画の歴史の生き字引のような存在の方だったので、
もちろん、いつかは、お亡くなりになるのはそれは仕方ない訳だけど、

しかし、僕は、もうちょっと待ってて欲しかった……

それは、淀川さんに僕の作品も評価してもらいたかったって思いがあるからなんです。
おこがましいことだとは思いますけどね……


最近、ある本を読んでて、自分は何のために生きているのか、なんのために仕事をし、
何を得たいと思っているのかについて、

その本では、「自分が一流と認める・尊敬する人に」「認めてもらいたい」
という欲求なのだと書かれていた。

あぁなるほどね。と思ったけど、その場合、僕が認めて欲しい人は、
誰かなと考えたら、やっぱり淀川さんだなぁと思った。

そういう訳なんです……

ずいぶんとまた長々と書きなぐってしまったけど、

淀川さんについて思うのは、

そういった映画を観る作法というか、観方というか、
彼の話してきたことだけでなくって、

その伝え方、取り組みについて考えさせられるからかな。

淀川さんのことを誤解してる人(日曜洋画劇場の解説者としての彼しか知らない人)は、
どんな作品もほめる、とにかく映画大好きのおじさんというイメージがあるだろうけど、

まぁ、そういう側面も確かにあるにはあるけど、

ほんとは表現に対してとっても厳しいよね。

この二枚舌の根底には、言うまでもなく深い映画愛がある。

映画文化を守って行くために、
評論家としては質を落とさせないようにする務めがある。

だから、目を光らせ、するどく斬る、
映画関係者にとっては怖い存在。

また、産業としての映画を支えていくために
解説者として一般にアピールしていくことにも重きを置いた。

淀長節(よどちょうぶし)なる独特の言い回しで、
魅力たっぷりに楽しく映画のことを語った。

この二面から愛する映画を下支えしてきた。

こういう通(つう)にも、素人にも訴える力を持つってことが、
そのものに身を捧げた伝道師の姿なんでしょうね。

僕はね、クリエイターやアーティストと、その活動や取り組みを応援したいと思ったり、
社会の理不尽を憂いてどうにかしていきたいと思うなら、

この淀川さんの伝道師としての潔さから、
学んでいかなくちゃと思ってるんですよ。


引用は、詩人の茨木のり子さんの作品。

僕は茨木さんの詩は、どれもメッセージが前面に打ち出され過ぎてて、
正直、ちょっと苦手なんだけど、

(詩っていうのは、ほんとうはそういう表現ではないと僕はおもってるからね…)

けれども、この作品は、自戒の念が呼び覚まされるし、
端的で、とっても気持ちのいい詩ですよね。




「自分の感受性くらい」茨木のり子

 
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


posted by チェン・スウリー at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記とか
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